机上の空論。
私は今、大学生という立場にある。現時点で、とりわけ最も質の悪い学生の一人だ。
そうしてそんな私もようやくというか今更というか、自分の将来について色々と考えるようになった。同時に今まで本当に何もしてこなかったことに気付いた。
考えてみると、どうにも今まで私は自身の将来にリアリティを見い出せていなかったように思う。
何となく他人事のように感じていた。根拠もなしに「きっと何とかなるだろう」だとか、「裕福ではなくとも平凡な生活くらいは」と考えていた。これは、さすがに、甘すぎる。
今回の記事は考えごとの整理がてら、はてな記法の試用とする。
何故、自身の将来にリアリティを見い出せていなかったのか。
これは言うまでもなく私の問題解決能力の欠如が原因だ。しかし一つ弁疏をするならばこのリアリティについては日本の教育制度だとかが背景にあるように思う。
幼稚園を出て小学校へ入り、そうして中学校に高校、大学と私は学び舎を渡ってきた。それはあたかも最初から敷かれていた線路を走るようだった。
この感覚が将来のリアリティを麻痺させていく。
自身の将来がある年頃まで大まかに決まっているからこそ、広い視野で将来を考える必要が薄れていく。
例を挙げるなら六年間の義務教育を経て中学校を卒業する際、大抵の学生は高校だとか何らかの教育機関へ進学していく。
それ故に遠い将来を見据えなくとも「どの高校へ行こうか」などと考えるだけで極論、事足りてしまう。
そうして中学生の大半は進学する事に疑問を抱かない。かく言う私も疑問を抱かなかった。
進学が一般的だと考えていたし、ましてや進学の意義を今一度確認するなんてことも、もちろんしなかった。
広い視野で将来を考えず、進学という範疇に限定して先を考えていたに過ぎない。
将来的に将来について考える、という事。
学業への疑問。
時折、学生の中で「何故こうして学校へ行って勉強をしなくてはいけないのか」と疑問を持つ人が居る。それはたとえ上述の進学する事に疑問を抱かない人でもありうる話だ。
偶然私が以前読んだ本にも、これと似たような意見を持つ学生が登場する。
いわゆる不登校であるその学生は家族会議にて両親に「何故勉強をしなくてはいけないのか。自分にはやりたいことがあるのに」と切り出して、最終的に「より自分を活かせる環境に身を置きたい。学校は自分には合わない」と結論付けていた。
このように教育機関での学業を強いられているように感じる学生は少なくはないだろう。
もちろん私もそう感じていたし、そのときは自分が学校の奴隷のように見えた。
しかし今よくよく考えてみると、そうでもないことに気が付いた。
到達点の確認。
勉強を何故しなくてはいけないのかと考えたとき、多くは「学生だから」という意見に繋がると思う。たしかに学生の本分が学業専念というのは自明の理だ。
ここで再確認しておくべきは自分の到達点だ。
十人十色といえど最終的に向かうところというと社会だろう。ここから段階的に考えていくと、自ずと勉強の意味が見えてくる。
勉強をすることで教育機関を修了することが出来て、それを武器に社会へと出ていく。
この単純明快な社会構造を今一度確認しておくだけで、心構えが変わってくる。
つまるところ、勉強とは生きるためにするもので、逆にしなければ社会に出れずに死んでしまうのだろう。このことを踏まえると教育機関というのはありがたく思える。
学業を強いられているように思えたのも、将来に対してリアリティがなかったからなのかもしれない。
自身が死んでしまわないように勉強があるのだとしたら、この教育機関という環境を最大限に利用しないで何をするのだろう。
そう考えると少し新しい見方が開けるのではないだろうか。