お祭り。

 題名の通り、今日は祭に行ってきた。今年は事情もあって例年より早い時間で終わってしまったが、それでも多くの人で賑わっていた。
 やはり祭は楽しい。行き交う人々を避けたりするのでさえ、その雰囲気も相俟って不思議と趣のあるように思える。色眼鏡というのは実に不思議だ。
 普段では法外な値段に感じる露店の出し物でさえ「今度はあれを食べてみよう」だとか「あれをやってみよう」とついつい興じてしまう。もちろん、そういうのもそう悪くない。
 ただ、祭の終盤の目玉である打ち上げ花火に目もくれず露店巡りに勤しんでしまったのは少し後悔した。来年はしっかり花火も見ておきたい。

 そうそう。今年に赴いたのはこの祭だけだったので来年は二つ、三つほど足を運んでみたい。出来れば浴衣も着てみたいが、不運な事に私は浴衣を持ってなかったとさ。めでたしめでたし。

タイム・トラベルの予感。

 今日は非常に興味深い記事を読んだ。以下抜粋。

 [ジュネーブ 23日 ロイター] 名古屋大や神戸大なども参加する日本や欧州の国際研究チームは23日、素粒子の一種であるニュートリノが光より速く移動することを示す観測結果が得られたと発表した。

 この結果が正しければ、宇宙の成り立ちをめぐる定説を覆すことになり、タイムマシンや異次元の存在も可能になるという。

 欧州合同原子核研究所(CERN)によると、ジュネーブ近郊のCERNから発射したニュートリノを730キロ離れたイタリアの研究所でとらえる実験を3年以上にわたり1万5000回実施。その結果、ニュートリノが光より60ナノ秒(1億分の6秒)速く進むことを観測したという。

 アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論では、質量を持つものは光よりも速く移動できないとされたが、今回の結果は同説と矛盾することになる。

 英マンチェスター大で素粒子物理学を研究するジェフ・フォーショウ教授は、観測結果が確認されれば、過去への時間旅行が理論上可能ということになると指摘した。

 研究チームでは、今回発表された観測結果が、独立した研究チームによって今後検証される必要があるとしている。

 私は理系の人間でないので詳しいことは分からない。けれども本文からするにとんでもないことが発覚したらしい。
 もしかすると理論上では時間逆行が可能になるなんて夢があって良い。まるでタキオンだ。
 多くのサイエンス・フィクション好きが憧憬したであろうタイム・トラベルに一筋の光明あり。

 そうして今後、小説だとかでも新しいアプローチが生まれたら面白そうだ。

なくなっちまった悲しみ。

 私は時折、自宅より少々離れた駅から、とぼとぼ歩いて下校することがある。
 すなわち心情だとか情緒だとか、そういう形而上のものが時折、私を歩いて帰そうとする。
 このとき、私の気分はさながら風来坊のようで、見慣れた遠景に路傍の草まで私をそわそわとさせてくれる。
 ようやく季節もゴールドムンドだとかが似合うようになってきた。
 そこで今日は久しぶりにその少々離れた駅から歩いて帰ることにした。残暑の息は長くとも秋らしい肌寒さを感じる。

 頭の中でぼんやりと決まった道を歩いている途中、私はちょっとした違和感を覚えた。
 その少々離れた駅からこれまた少々離れた所にあるはずのものがそこになかったからだ。
 私の記憶が正しければ、インド人が営む小さなカレー屋があったはずだった。しかしそこにはカレー屋ではなくて小洒落たカフェテラスが店を構えている。
 私は馬鹿正直に「ああ、あのカレー屋、閉店しちゃったんだなあ」と思った。
 今の御時世ならばありうる話であるし、本場のカレーを謳えど風当たりの強い業界に違いないから尚更ありうるだろう。
 そうやって頭で理解は出来るのにどうにも悲しい。思わず涙が滲みそうだった。
 もちろんそのカレー屋が行きつけの店だとかいう、いわば思い入れのようなものはない。ただ私を惹きつけてやまない、ある種のみすぼらしさがその店にはあった。

 そのみすぼらしい店の存在に初めて気付いたのはいつの頃だろう。
 大方、私が柄にも無く学習塾に通っていた中学生の頃だろうか。その店は当時通っていた学習塾からそう遠くない上、学習塾へ向かう途中の道沿いにあるからおそらく中学生の頃だろう。
 横目ながらそのカレー屋を見る度、店主らしきインド人が隅の方に置かれたテレビをぽつねんと眺めていて、何故だか私にはその人が申し訳なさそうに見えた。
 客はおらず店員はおらずの閑散とした店内は虚無感さえ漂っていた。
 そうして私は一度だけ、その店に入ってみようかと思ったことがある。
 きっと申し訳なさそうに微笑みながら店主が迎えてくれて、私が辛口のカレーを頼んだりしたらば「ええ、本当に辛いヨ」なんて申し訳なさそうに心配してくれたのだろうか。
 そう考えるとあのとき、あの店に入らなかったことを申し訳なく感じてしまうのは何故だろう。別に私と直接的な関係があるものでもないのに。

 ブライアン・イーノのバイ・ディス・リバーという曲が、いつも以上に悲しく聴こえた。

つまりはこの重さ。

今週のお題「おすすめの本」

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

 何やらはてなダイアリーにて、「今週のお題」なる話題提供を見つけたのであやかってみる。
 今回、「おすすめの本」の下、読了を苦手とする私が身分不相応ながら紹介するのは、梶井基次郎氏の檸檬という短編小説だ。因みにその短さというと、先述の通り読了が苦手な私でもすんなり一読が出来るくらいだった。

 なお、言わずとも知れたこの作品をこのようにあえて紹介するのには、私なりにこの作品に対して思い入れがあるからであり、とりわけ文章の書き方を忘れてしまったとき、この檸檬に度々助けられている。言い換えるならば私にとって檸檬は文章を書く時の見本だと考えている。

 さて上述で檸檬はすんなり一読出来たと記したが、この「すんなり」には文量はもちろんのこと、その流麗な文章も関係している。何というか文と文のつなぎが綺麗に思える。
 心情は得てして無造作で規律性がなかったりする不思議なものであるから、その自由な感情らを文として紡ぐのは容易でない。だからこそ、梶井基次郎氏の繊細な心情描写が光ってくる。
 したがって何度でも読める上に、何度でも見本となって、何度でも私を助けてくれるのだ。

 内容に関しては読者各々の解釈がある手前、おしなべてこれこれであると述べることは出来ないが、私は檸檬を読み終えるとくすぐったい気持ちになることが多い。
 それこそ喩えるならば、まるで心が檸檬を食ったようになってしまい、そうしてじわじわとそのうち爽やかな気持ちがやってくるのだ。
 もう少しここに関して詳しく述べたいところであるが、この過程を生半可に説明してしまうと本来あるべき風流のようなものが損なわれてしまうかもしれないので伏せておく。
 強いていえば、きっと一読が終わってしばらく余韻を味わっていると、著者と一緒になって「ははは」と声をあげたりしながら京極を下って行きたくなるだろう。

 最後に補足を一つ。今回の本の紹介にあたり、はてなダイアリーに記されていた手順に沿って紹介したが、本書は青空文庫にて公開されている。興味がある方は是非。

通学の道も一歩から。

 本日をもって私はしがない大学生として、卒業単位なる怪物と死闘を繰り広げることになった。
 正確には一年と半年ほど前から今回の戦の火蓋は切って落とされていたのだが、どうにも私は今日に至るまで何もせず、並びに何も残さずの生活を過ごしていたらしく、この不思議な空白期間においては「ああ、何ということでしょう」とおののくばかりである。

 兎にも角にも、以降は一学生として教養ビームや専門ビームの包囲網を掻い潜り、来たる卒業論文アタックにしても然るべき対策を講じていかなくてはいけない。
 すなわち阿鼻叫喚の死線を越えていかなくてはならない。
 しかし、朝っぱらから轟々たる風雨の中、明らかに自分の体格とそぐわない傘を差してわざわざ大学へ赴いたにも関わらず、この日は台風接近に伴い午後の講義が休講となった。
 大学の構内放送で休講の旨を知ったとき、私と同じくして風雨に打たれて来た屈強な学生達は何を思っただろう。
 おそらく「畜生、寝過ごすべきだった」と自責の念としのぎを削りあったはずだ。
 かく言う私も、本来ならば享受出来たであろう睡眠時間に想いを馳せたりしながら、くしゃくしゃになった時間割表を片手に履修の計画を企てたり、事務連絡だけで打ち止めになった語学講義を孤立無援の中、素数を数えて耐え忍んだり、申し訳程度に大学生のふりをして帰路に着いた。
 つまり、残念、私の土留め色の大学生活初日はここで終わってしまったとさ。おしまい。