真面目に通ってます。

 今日は大学のアリーナで記事を書こうと思う。見晴らしが良かったので。

 さて、つい先程まで社会心理学を受講してきたが、あの講義は履修しておいて正解だった。
 若干冗長な部分もあったにせよ、知識欲を満たすには結果的に十二分だったように思う。
 第二講目である今回は社会心理学というだけあって社会について学んできた。社会を研究対象とする二つの立場のくだりはとても興味深い。

二つの立場。

 社会実在論と社会名目論、方法論的集団主義と方法論的個人主義。これら対照的な見地のアプローチが存在しているのが面白い。
 とりわけ方法論的集団主義が個人的に一番興味深かった。
 方法論的集団主義の参考書にフランスの社会学者であるデュルケームの「自殺論」が紹介されていたが、あれも近い内に読んでみたい。

自殺者の数を見て、社会を知る。

 まだ読んではいないが「自殺論」によると、カトリックプロテスタントの宗教域を地域という点で二分した場合、自殺者の数に差があったという。
 既にこの数字的事実が面白い。何故、差が出たのか。
 講義では宗教的な文化の違いが起因していると説明があった。
 私はキリスト教の信徒ではないので詳しいことは分からないが、ポイントは懺悔室の有無だ。

 教授の話では、懺悔室というのはプロテスタントにない概念だそうで、これはつまり罪に対する意識の捌け口がないと等しい。(事実なのか半信半疑であるが)
 一方でカトリックでは聖堂に懺悔室が存在する。懺悔室で自分の罪を告げることで赦しを獲得するというのは、私でも知っている話だ。
 そうして懺悔室が各々の心のバランスを調整しているらしい。
 極端な言い方をすると、この心の調整が自殺者の数に違いを生んでいるという結論になる。
 そんなこんなで自殺者という見地から社会は集団が形成していると述べたのがデュルケームの「自殺論」らしい。面白そうだ。

社会は個人からなる。

 上述の自殺論とは対極に見地からアプローチしているのが、マックス・ウェーバーの「資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理」という書籍らしい。こちらも興味深い。
 「資本主義で成功したアメリカの背景にはカルヴァン派の狂信的な思想が基盤となっていた」という切り口から、社会とは個人によって形成されるものだと主張しているそうだ。
 いずれにせよ上記の書籍はどのみちレポートを書かされるであろうから、そのうちじっくり考察でも書いてみようと思う。