ノートの中で。
特に理由はないが、大々的にブログのデザインを変えてみた。
白を基調としたデザインが個人的に好みだったが、いささか中性的すぎるか。
さりとて他に候補があるわけでもなく、当面はこのデザインを使っていくことにしようと思う。三日もすれば、まあ、慣れるだろう。
因みに、と言ってはおかしな話であるが、今までかけていた公開制限もやめてみた。
もちろん、これにも特に理由はない。
さて、前々回の記事でも書いたように今日は講義があったので大学へ行ってきた。
やはり本来ならば祭日ということもあって、構内に学生は少ない。
普段は人でごった返している喫煙所も人がまばらだったくらいだ。とはいえ、たまには今日のような日があっても良い。
お世辞にも大きな大学とは言えない手前、学生の休みが多いと人が極端に少なくなるが、それもまた過ごしやすいと言えば過ごしやすい。
幸いなことに今日は天候にも恵まれていたので、そういう点では「当たりの日」だったように思える。
明日は午後から講義なので、今日はのんびりデッサンの練習でもしよう。
そんなところでオライリー。
今週もあっという間に終わろうとしている。
月曜日に「ああ、一限から講義とは何たる不運」と天を仰いでいたのに、気が付けば金曜日を迎えているとは。
思うに忙しさというのが肝要なのかもしれない。学業にしろ趣味にしろ仕事にしろ、自分が将来的にやらなくてはいけないことがあるのなら、意識は自然とそちらに向いていくものだ。
したがって、時間を意識することが少なくなっていく。そこに仕掛けがあるのだろう。
惜しむらくは三連休がないことか。もちろん休日を休日として過ごせるのはありがたい話だが、どうせなら三連休も満喫したい。
しかし、十一月の頭に立川にてイベントを運営することになっている手前、自宅でも取り組まなくてはいけないことが多い。
今のところ取り組むべきは、Blenderを用いたキャラクターのモデリングとUnityを用いたウェブ上へのアウトプット。
イベントまで一ヶ月を切っているので、これではおちおち昼寝もしてられない。行き当たりばったりも過ぎる。
今回はプロジェクトのメンバー全員が同じ作業をやるようだが、やはり役割分担をしっかりしておかないといけない。
因みに今回のイベントは「立川をCG及びARで再現し、インタラクティブ性のある街興し」というのを目標にしている。
つまり、CGの製作にしろ、ARのプログラミングにしろ、プロジェクトのメンバーが取り組まなくてはいけないことは少なくない。
今回は院生のチーフがインターンシップも兼ねてプロジェクトを統括しているが、さてどうなることやら。
いずれにせよ私のような末端は任されたことを完遂するのみなわけだが、自身のスキルアップのためにも、今週の休日は有意義に過ごしたい。
真面目に通ってます。
今日は大学のアリーナで記事を書こうと思う。見晴らしが良かったので。
さて、つい先程まで社会心理学を受講してきたが、あの講義は履修しておいて正解だった。
若干冗長な部分もあったにせよ、知識欲を満たすには結果的に十二分だったように思う。
第二講目である今回は社会心理学というだけあって社会について学んできた。社会を研究対象とする二つの立場のくだりはとても興味深い。
二つの立場。
社会実在論と社会名目論、方法論的集団主義と方法論的個人主義。これら対照的な見地のアプローチが存在しているのが面白い。
とりわけ方法論的集団主義が個人的に一番興味深かった。
方法論的集団主義の参考書にフランスの社会学者であるデュルケームの「自殺論」が紹介されていたが、あれも近い内に読んでみたい。
自殺者の数を見て、社会を知る。
まだ読んではいないが「自殺論」によると、カトリックとプロテスタントの宗教域を地域という点で二分した場合、自殺者の数に差があったという。
既にこの数字的事実が面白い。何故、差が出たのか。
講義では宗教的な文化の違いが起因していると説明があった。
私はキリスト教の信徒ではないので詳しいことは分からないが、ポイントは懺悔室の有無だ。
教授の話では、懺悔室というのはプロテスタントにない概念だそうで、これはつまり罪に対する意識の捌け口がないと等しい。(事実なのか半信半疑であるが)
一方でカトリックでは聖堂に懺悔室が存在する。懺悔室で自分の罪を告げることで赦しを獲得するというのは、私でも知っている話だ。
そうして懺悔室が各々の心のバランスを調整しているらしい。
極端な言い方をすると、この心の調整が自殺者の数に違いを生んでいるという結論になる。
そんなこんなで自殺者という見地から社会は集団が形成していると述べたのがデュルケームの「自殺論」らしい。面白そうだ。
社会は個人からなる。
上述の自殺論とは対極に見地からアプローチしているのが、マックス・ウェーバーの「資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理」という書籍らしい。こちらも興味深い。
「資本主義で成功したアメリカの背景にはカルヴァン派の狂信的な思想が基盤となっていた」という切り口から、社会とは個人によって形成されるものだと主張しているそうだ。
いずれにせよ上記の書籍はどのみちレポートを書かされるであろうから、そのうちじっくり考察でも書いてみようと思う。
太陽を見たことがない。
- 作者: 伊坂幸太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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高熱と腹痛という風邪の爆発力を全身で受け止めつつ、伊坂幸太郎氏の死神の精度を読み終えたので今回はその読感を書いてみようかと思う。
短編にして長編。
伊坂幸太郎氏の作品は今回が初めてだったが全体的にすんなりと読めた。
人の死の一週間前に派遣され、七日間の観察で対象者の死を「可」とするか「見送り」とするか選定する。
この死神の設定に使い勝手の良さを感じた。加えて六話からなる短編集というのも読みやすさに一役買っている。
死神である千葉も確かにクールだが少しズレていて好感が持てたし、各話で登場する人物も嫌味がなかった。
中でも「死神と藤田」に登場する阿久津という青年が個人的に気に入った。
何というか人間離れした冷静さを持つ千葉(死神なので当然だが)と対照的に人間臭さが引き立てられており、青臭ささえも美しく感じる。
似たような位置づけで「旅路を死神」に登場する森岡という青年も好感が持てた。きっと森岡の場合は自分と同い年だからというある種の感情移入があったと思う。
それら魅力的な登場人物が織り成す一話一話が最後に繋がっていく過程はニヤリとした。それも人間とは逸脱している死神だからこそ紡げた結末なので余計に「ほお」と思える。
個性は諸刃。
全体を通して死神は個性的だったが、随所で「ん?」と思う場面があった。ネタバレになってしまうので詳細は書かないでおくが千葉の知識量についてだ。
一言でまとめると「それを知っていて、何故それを知らない」という場面が多々ある。
死神自体の設定は面白いが、そのバックグラウンドが曖昧模糊なので、そこらへんが理由なのだろう。
一つは自己形成について。死神というのだから人間でいう年齢だとか性別だとか、そういった概念はない。しかし自己形成に関しては人間と同じように思える。
つまり死神は知識や経験が各々に収束しているので全知全能でないのだが、それがどうにも極端すぎる。
これだけではいまいちイメージがつきにくいと思うので例をあげると「悪徳商法の手法を知っていて、自動車はガソリンがなくなると走れなくなることを知らない」などがそれに該当する。
上述の知識量、経験則については「ズレている」でまとめられると個性になるが、その個性も諸刃だ。
しかしその個性は諸刃だからこそ小さな違和感も取り除いていけば、より作品に深みを感じることが出来ただろうなと思う。
机上の空論。
私は今、大学生という立場にある。現時点で、とりわけ最も質の悪い学生の一人だ。
そうしてそんな私もようやくというか今更というか、自分の将来について色々と考えるようになった。同時に今まで本当に何もしてこなかったことに気付いた。
考えてみると、どうにも今まで私は自身の将来にリアリティを見い出せていなかったように思う。
何となく他人事のように感じていた。根拠もなしに「きっと何とかなるだろう」だとか、「裕福ではなくとも平凡な生活くらいは」と考えていた。これは、さすがに、甘すぎる。
今回の記事は考えごとの整理がてら、はてな記法の試用とする。
何故、自身の将来にリアリティを見い出せていなかったのか。
これは言うまでもなく私の問題解決能力の欠如が原因だ。しかし一つ弁疏をするならばこのリアリティについては日本の教育制度だとかが背景にあるように思う。
幼稚園を出て小学校へ入り、そうして中学校に高校、大学と私は学び舎を渡ってきた。それはあたかも最初から敷かれていた線路を走るようだった。
この感覚が将来のリアリティを麻痺させていく。
自身の将来がある年頃まで大まかに決まっているからこそ、広い視野で将来を考える必要が薄れていく。
例を挙げるなら六年間の義務教育を経て中学校を卒業する際、大抵の学生は高校だとか何らかの教育機関へ進学していく。
それ故に遠い将来を見据えなくとも「どの高校へ行こうか」などと考えるだけで極論、事足りてしまう。
そうして中学生の大半は進学する事に疑問を抱かない。かく言う私も疑問を抱かなかった。
進学が一般的だと考えていたし、ましてや進学の意義を今一度確認するなんてことも、もちろんしなかった。
広い視野で将来を考えず、進学という範疇に限定して先を考えていたに過ぎない。
将来的に将来について考える、という事。
学業への疑問。
時折、学生の中で「何故こうして学校へ行って勉強をしなくてはいけないのか」と疑問を持つ人が居る。それはたとえ上述の進学する事に疑問を抱かない人でもありうる話だ。
偶然私が以前読んだ本にも、これと似たような意見を持つ学生が登場する。
いわゆる不登校であるその学生は家族会議にて両親に「何故勉強をしなくてはいけないのか。自分にはやりたいことがあるのに」と切り出して、最終的に「より自分を活かせる環境に身を置きたい。学校は自分には合わない」と結論付けていた。
このように教育機関での学業を強いられているように感じる学生は少なくはないだろう。
もちろん私もそう感じていたし、そのときは自分が学校の奴隷のように見えた。
しかし今よくよく考えてみると、そうでもないことに気が付いた。
到達点の確認。
勉強を何故しなくてはいけないのかと考えたとき、多くは「学生だから」という意見に繋がると思う。たしかに学生の本分が学業専念というのは自明の理だ。
ここで再確認しておくべきは自分の到達点だ。
十人十色といえど最終的に向かうところというと社会だろう。ここから段階的に考えていくと、自ずと勉強の意味が見えてくる。
勉強をすることで教育機関を修了することが出来て、それを武器に社会へと出ていく。
この単純明快な社会構造を今一度確認しておくだけで、心構えが変わってくる。
つまるところ、勉強とは生きるためにするもので、逆にしなければ社会に出れずに死んでしまうのだろう。このことを踏まえると教育機関というのはありがたく思える。
学業を強いられているように思えたのも、将来に対してリアリティがなかったからなのかもしれない。
自身が死んでしまわないように勉強があるのだとしたら、この教育機関という環境を最大限に利用しないで何をするのだろう。
そう考えると少し新しい見方が開けるのではないだろうか。